今さらながら、「しがみつかない生き方」を読了した。
感想としては、ふつうの幸せを求める方法として「しがみつかない」ことを“癒し”として提唱することは毒にも薬にもならないと思った。
「しがみつかない」ことはとても難しい。
それは、香山氏が最後に主張する「勝間和代にならない」ということより難しい。
私は大学時代、とあるコミュニティーで「頑張らない」をテーマに、活動の“継続”を至上命題とする、ということをやっていた。
講師が開口一番に言った「みなさん、ここでは頑張らないでください。疲れたら横で休んだり、教室を出て休憩をしても構いません。楽な気持ちになったら活動を再開してください」という言葉に、みながぽかんと口を開けた。
しかし、活動が進むにつれて、「頑張らない」ことは意外と難しいことに気づいていった。
気楽な環境を作り、そのコミュニティーに愛着をもつようになってくると、人は自然に頑張ってしまうのである。
そう、コミュニティーにしがみついてしまうのだ。
さらに、コミュニティーの質を上げようと勉強会などを始めてしまえば事態は最悪である。
はげしくしがみつくメンバーは頑張らないメンバーと一線を画し、コミュニティーのなかで分裂と排斥がおこる。
このように、数々のトラブルを抱えながらも、私が「頑張らない」やり方をなんとなく使えるようになるまで4年かかった。
これぐらい試行錯誤を繰り返さないと、「しがみつかない」絶妙なバランスはなかなか得られないのである。
(もちろん私もしがみつかないでいられる部分はそのコミュニティー内だけで、未だほかの分野ではしがみつきまくっている)
「しがみつかない」という考え方は、仏教の「執着を捨てる」という考え方にも通じているように思う。
このように、信仰の力を借りなければなしえないほど、成し得ることが難しいことがらなのだ。
それを、しがみついている人の息苦しさを例に挙げて、その不毛さを説き、「しがみつくのをやめましょう」と言ったところで、しがみついている人は何もできない。
真に香山氏が精神科医として語るべきことは、「しがみつかない」難しさと、それを実践するにはどうすればいいかということだったのではないだろうか。